非エンジニアでも使えるシステムの選定基準
統計で現実を見ると、意思決定の解像度が一段上がります。Standish GroupのCHAOSレポートなどの公開サマリーでは、ITプロジェクトの成功率はおおむね3〜4割、残りは遅延やコスト超過、あるいは失敗に分類されると報告されています¹²。さらにSaaS管理の調査では、未使用・過剰なライセンスや支出が全体の約3〜4割に達するとの報告が続いています³⁴。つまり、システム導入の成否は選定の瞬間に大きく決まり、しかもその判断はエンジニアだけの専売特許ではありません。非エンジニアの意思決定者が再現可能な基準を持てば、過剰な技術主義や場当たりの好みから距離を取り、投資対効果を安定させられます。本稿では、現場と経営の橋渡し役である読者に向けて、エンジニアリングの裏付けを保ちながらも非エンジニアでも使える選定基準を、実務でそのまま使える形で提示します。
なぜ選定は難しいのか——失敗の構造を直視する
失敗は要件の抜けや技術の難易度だけで起こるわけではありません。齟齬の源流は、言葉の非対称性と評価軸の時間差にあります。業務側は直近の不便を減らしたいという確実な動機を持ち、ベンダーはデモで瞬発的な価値を示します。一方でCTOは三年先の運用やセキュリティを気にしており、バックログよりもレイテンシ(処理にかかる待ち時間)や拡張余地に目が向きます。ここで基準が共有されないまま選定を進めると、初期は快適でも連携コストが雪だるま式に増える、あるいは非機能の不足でスケール局面に詰まるといった、じわじわ効いてくる失敗が顕在化します。
CRMの更改でよくある典型例では、現場は操作の軽さを重視してA製品に傾き、技術側はAPI(外部連携のための出入口)の粒度とイベントの一貫性でB製品を推します。Aはデモが圧倒的にスムーズでしたが、見積もりに表れない運用の手当が多い可能性があり、パイロットで夜間のバッチ遅延と重複登録の再現性を検証します。結果としてA案は週次の名寄せ(重複解消)工数が継続的に発生し、B案は初期構築が重いものの運用は軽いという性質が明確になります。選定は今の快適さと将来の安定性のバランスを定量で比較する営みであり、ここに非エンジニアが参加できる基準を言語化することが鍵です。
デモの魔法と現実の摩擦
デモは最短距離のストーリーで構成されます。現場データのノイズや例外系は登場せず、クリックは迷いなく進みます。現実ではCSVの文字コードが混ざり、顧客IDの重複が発覚し、承認フローは月末に渋滞します。だからこそ、デモで見えない摩擦を、実データのサンプルと限られた時間で意図的に呼び出す必要があります。三十分で未経験者がどこまで自走できるか、七日間で何件のエラーが出て、どれだけ自己解決できたか。こうした観察は専門知識なしに計測できます。ストップウォッチと画面録画が一つあるだけで、主観の議論はデータに変わります。
要件の過剰化と技術負債の前払い
要求を盛り込むほど安心する心理が働きますが、カスタマイズの山は将来のアップデートで崩れやすく、保守と教育のコストが膨らみます。業務の例外にシステムを合わせるのではなく、業務を標準機能に寄せる発想をどこまで許容できるかが選定の質を左右します。要件は「必須」「強い推奨」「妥当なら可」の三層で語ると、交渉と比較が上手く回ります。非エンジニアは、仕様書の細部ではなく「この要件は標準機能で満たせるのか」「将来のアップデートで壊れないか」という二つの質問を繰り返すだけで、リスクの輪郭を早く掴めます。
非エンジニアでも判定できる実用基準
ここからは専門用語を最小限にして、誰が見ても同じ結論に近づく評価軸を提示します。ポイントは、計測可能で、短時間のパイロットでもブレが少ないものに寄せることです。
業務適合と学習コスト——三十分での上達度を測る
初見のメンバーに、代表的な三つのタスクを三十分で触ってもらい、完了率と所要時間、よく使う操作の迷いの回数を記録します。説明なしでも進められるか、ツール内の検索やヘルプで自己解決できるかを観察すると、学習曲線の傾きが見えます。マニュアルが充実していることと、探している答えに辿り着けることは別問題です。初期習熟の速さは定着率に直結します。オンボーディングのテンプレートやチュートリアルの質、アクセシビリティ対応(キーボード操作や画面読み上げ対応など)の有無も有効な観点です。非エンジニアでも、「最初の10分でどこまで進めたか」を指標化すれば、製品同士の差がクリアになります。
運用容易性と権限管理——管理画面で日常が決まる
導入後の大半は運用です。管理者がユーザー追加、権限ロールの付与、監査ログの確認、IP制限やSSO連携などを自力で行えるかを確かめます。SSO(シングルサインオン)があると、社員は一度のログインで複数のシステムを使えます。SAMLやOIDC(いずれもSSOの標準規格)のどちらに対応しているか、ユーザー自動プロビジョニングであるSCIM(人事システムの情報から自動でアカウントを作成・削除する仕組み)の有無は、非エンジニアでも質問できる重要チェック項目です。設定の変更が即時反映されるのか、サポートに都度依頼が必要なのかで、日常のスピードは大きく変わります。監査ログの粒度と保持期間は、トラブル時の振り返りに直結します。
データの主権と可搬性——出口戦略が安心を生む
データの輸出入がどの形式で、どの範囲まで可能かを確認します。CSVやJSONでの全量エクスポート、APIでの増分取得、削除や復元の設計、履歴の保持が揃っていると、将来の再編にも耐えられます。ベンダーロックインは入口ではなく出口で起きるため、契約前に退避の具体手段を明文化しておくと、交渉力も高まります。法令順守の観点では、データ所在(リージョン選択)、暗号化(保存時は一般にAES-256、通信時はTLS1.2以上が目安)、鍵管理、第三者監査(SOC 2やISO 27001)といった基礎要件を、ベンダー資料で確認できることが望ましいでしょう。非エンジニアは「全件を自社で保管し直せるか」を一つの合格ラインに置くと判断がぶれません。
現場の成果指標——採用率、所要時間、問い合わせ
使われないシステム導入は投資ではなくコストです。週次アクティブ率、主要タスクの平均所要時間、サポート問い合わせ件数、NPSやCSATなど、運用で継続計測できる指標を先に決め、それをパイロットでも同じ定義で測ります。同一指標での前後比較ができれば、主観のぶつかり合いから抜け出せます。「誰が」「いつ」「何を」「どの定義で」測るかを一行で書き出すだけで、測定の品質は一気に上がります。
CTOが保証したい非機能の裏側を共有言語にする
非機能要件は、発生してからでは取り返しが付きません。ここはエンジニアが深く見ますが、意思決定に関わる全員が理解できる言葉に落とし直しておくと、議論が早くなります。
可用性と性能——数字で時間を守る
SLAやSLO(サービスがどれだけの品質で動くかを約束する指標)は現場の時間を守る契約です。例えば可用性が99.9%なら月間の停止許容は約四十三分、99.99%なら約四分です⁵。ピーク時の応答時間の目安、バースト時のスロットリング(急なアクセス集中時の制御)、バックエンドのキューイング戦略などをベンダーに尋ね、観測可能なダッシュボードが提供されるかを確認します。性能は平均ではなく分布で体感が決まりますから、p95やp99(100回中95回・99回でどのくらい遅れるか)の遅延値に言及があると安心材料になります。
拡張性と連携——APIの設計が将来の速度になる
APIの網羅性、レートリミット(一定時間あたりの呼び出し制限)、Webhookの再送や順序保証、イベントの冪等性(同じイベントが複数回届いても結果が一度だけ反映される性質)は、連携の保守性を左右します。イベント到達の遅延が数秒で安定していると実運用に耐えやすく、障害時のリトライやDLQ(デッドレターキュー:処理できなかったメッセージを一時退避する箱)相当の仕組みがあると復旧が速まります。ノーコード連携ツールとの相性も、非エンジニアが自走する余地を広げます。
セキュリティとコンプライアンス——交渉の土台を早めに固める
ゼロトラスト(常に検証し続ける前提)では、SSOや多要素認証、細粒度のRBAC(役割に応じたアクセス制御)、監査証跡、IPやデバイス制御は初期から有効化できることが重要です。規制業種では、データ分離、ログの保全、保管期間、処理委託の範囲、サブプロセッサ一覧の提供など、監査で問われる項目を先に押さえます。セキュリティ項目はコストではなく導入速度を上げる保険です。後追いの是正ほど高くつきます。
サポート体制と運用のレジリエンス——人の支えが最後に効く
障害報告の透明性、ステータスページの即時更新、事後のインシデントレポート、エスカレーションの明確さは、トラブルの体感を大きく左右します。重大度定義と初動時間、回復時間の実績が継続して開示されているかを見れば、文化まで透けて見えます。非エンジニアは、ステータスページの履歴とレポートの質を一度読み込むだけで、サポート成熟度の輪郭をつかめます。
三年TCOと導入設計で意思決定を確定する
最後はお金と時間の物差しで決めます。ここだけは抽象論を排し、三年の総保有コストと採用率の見込みを一つのシートに載せ切ります。ライセンスの単価や従量課金だけでなく、実装の外部費用、社内工数、教育や周辺ツールの追加費、価格改定の想定、スイッチングコストまでを含めると、見積りに現れない差が浮かび上がります。
TCOの分解とサンプル計算——見積もりに写らない影を炙り出す
仮に一ユーザー当たり月額五千円のSaaSを百名で使うと、表面の年間費用は六百万円です。初期構築に二百時間の社内工数を掛けるなら、時給五千円換算で百万円の内部コストが乗ります。運用では管理者が月十時間ほどの設定変更と棚卸に費やすと仮定すると、年間六十時間、三年間で百八十時間、九十万円が積み上がります。さらに、価格が毎年一〇%上がるシナリオや、従量課金がピークで二割跳ねる時期を織り込むと、カタログ価格の差より運用の癖が支配的であることが分かります。数値はあくまでサンプルですが、計算の枠組みを固定すると比較の解像度は揃います。
ROIの現実解——時間短縮の通貨で揃える
ROIは最終的に時間の短縮で測るのが実務的です。例えば、営業一人が案件登録にかける時間を十分から六分に短縮できるなら、四分の削減です。百名が一日二回行うと、日当たり八百分、約十三時間の削減になり、時給四千円なら一日五万二千円、月二十営業日で百四万円の便益です。ここに採用率を掛け合わせます。導入初期の採用率が六割、半年後に八割まで上げられると想定すると、時間短縮の価値は採用率で割引されます。だからこそ、導入設計で採用率を上げる投資は回りやすく、教育やチャンピオン育成は費用ではなく収益化の前払いになります。式にすると「便益=時間短縮量×実施頻度×対象人数×人件費単価×採用率」です。非エンジニアでも、この一行でROIの会話を主導できます。
導入の設計——パイロットの成功基準を先に決める
選定の延長線上に、導入の勝ち筋を敷いておきます。代表部署でのパイロットを四週間とり、開始前に成功基準を文章で確定します。例えば、週次アクティブ率七割、主要タスクの所要時間三割短縮、問い合わせ件数は二週目から逓減、CSVの取り込みは一万件でエラー率〇・五%以下、といった形にします。同じ定義を本番でも継続して測ると、成功が属人的な印象論から脱します。データ移行はサンプルから始め、文字コードや日付、重複の罠を実データで早めに炙り出します。トレーニングは一度に全員へ行うより、チャンピオンを育てて現場で横展開した方が定着します。サポート窓口や運用の責任分界点を明文化し、アンケートではなく実測指標で定着を追いかけます。万一に備えたロールバック手順も、紙ではなくリハーサルで実行して確認しておきましょう。
ベンダー評価の最終チェック——約束は文書で、計測は自前で
セキュリティ回答書やSLA、価格条件は言質ではなく文書と契約条項で持ち帰ります。ステータスページや事後レポートの公開頻度、サポートの初動時間、責任分界点の理解度など、文化に属する要素も記録しておきます。約束は紙に、信頼は計測にという原則を忘れなければ、過度な期待と過小な備えの両方を避けられます。
まとめ——誰も置いていかない選定を、再現可能な基準から
選定の成功は、決裁者の勘や個人の専門性に預けるほど再現性を失います。非エンジニアでも測れる業務適合と学習コスト、運用容易性、データの可搬性という土台を揃え、CTO視点の非機能を共有言語で確認し、三年TCOと採用率で投資の合理性を可視化する。主観を指標に翻訳し、短いパイロットで失敗を小さく試すことが、システム導入を「使われる投資」に変えます。次に候補を比較するときは、三十分の自走テストと四週間のパイロット、そして同一指標での前後比較をセットで設計してみてください。現場が自信を持って使い、技術が安心して支え、経営が数字で信じられる——そんな導入は、特別な魔法ではなく、誰にでも実行できる手順から生まれます。
参考文献
- InformIT. What We’ve Learned from the Standish Group’s CHAOS Reports. https://www.informit.com/articles/article.aspx?seqNum=6&p=2126572
- arXiv. arXiv:1509.00602. https://arxiv.org/abs/1509.00602
- Zylo. Zylo’s SaaS Management Index reveals organizations only utilize 60% of SaaS licenses, leaving 40% unused. https://zylo.com/news/zylos-saas-management-index-reveals-organizations-only-utilize-60-of-saas-licenses-leaving-40-unused/
- Flexera. Flexera State of ITAM Report shows wasted spend remains high across IT estate. https://www.flexera.com/about-us/press-center/flexera-state-of-itam-report-shows-wasted-spend-remains-high-across-it-estate/
- Cloud Adoption Framework (Sovereign Cloud NZ). High availability reference (monthly downtime for 99.9%/99.99%). https://docs.cloud.sovereigncloud.nz/en-us/iaas/Content/cloud-adoption-framework/high-availability.htm