IT化で離職率を30%改善した企業の取り組み
離職率を「30%相対改善」。耳慣れたようで実行は難しい数字だが、実務に落ちたデジタル化が入ると現実味を帯びる。本稿の「30%」は断定的な実績ではなく、公開調査や現場で一般に観測される範囲の例示として扱ってほしい。厚生労働省の雇用動向調査では情報通信業の離職率はおおよそ一桁台後半から低二桁で推移しているとされ、わずかな改善でも企業財務とチーム速度に大きく響く¹。公開事例と実務観察を突き合わせると、待ち時間と手戻りの削減、オンボーディング加速、ITサポートの可視化という古典的な三点セットを、SaaSとワークフロー自動化で一貫運用することで、離職が下がる方向に寄与しうるという示唆が得られる。重要なのは、従業員体験の摩擦源を、プロダクトとして設計・運用できたかどうかだ。
なぜIT化で離職が下がるのか:摩擦を定量化し、体験SLOで運用する
離職の直接原因は待遇だけではない。毎日の仕事で生じる小さな摩擦、たとえば承認待ちが長い、アカウントが届かない、申請が不透明、端末が不安定といった「見えない待ち時間」が累積し、やがて退職行動につながる⁴。IT化の本質は、これらの摩擦を計測し、安定して低い水準に保つ運用だ。筆者はこれを従業員体験のSLO(Service Level Objective:サービス目標値)、すなわち**EX-SLO(Employee eXperience SLO)**として整理する。具体的には、初回ログインから主要業務が可能になるまでの所要時間の95パーセンタイル(P95)、サービスデスクの初動応答の90パーセンタイル(P90)、申請から承認までのリードタイム中央値など、顧客向けSLOと同様の定義を従業員体験に適用する。守るべきしきい値が明確になれば、SaaSや自動化基盤は単なるツールではなく、SLOを達成するためのプロダクトとして扱えるようになる。
ケース:中堅メーカーA社の前提と課題(匿名・モデルケース)
従業員3,000〜4,000人規模、デスクワーカー比率はおおむね半数超、拠点は国内・海外に分散。入社3カ月以内の早期離職が目立ち、現場の声として「初日のセットアップで丸一日が消えた」「申請がどこで止まっているか分からない」「ITに問い合わせても折り返しが遅い」が繰り返し出る。ITは多能工で回しているが、案件とチケットが増えるほど属人化が進み、初動は半日程度、承認リードタイムは数営業日に達しがちだ。A社はこの摩擦をプロダクト課題と定義し、体験SLOを設定したうえでIT化に着手する。
取り組みの全体像:オンボーディング、フロー自動化、ITSMの三点で一貫運用
最初の柱はアイデンティティ統合とゼロタッチのオンボーディングだ。人事システムをトリガーにIDaaS(Identity as a Service:クラウドID管理)でアカウントを自動発行し、MDM(Mobile Device Management:端末管理)で端末をキッティングレスに配布する。入社当日には必要なSaaSがSSO(Single Sign-On:一度の認証で複数サービスにログイン)で使え、配属先のグループと権限はSCIM(System for Cross-domain Identity Management:アカウント属性の標準連携)で自動かつ正確に付与される。この設計により、初日の業務立ち上げ完了率は中位から高位に跳ね上がり、OJTに入るまでの期間中央値も短縮される傾向がある。オンボーディングが短縮されると、習熟の早い人ほど早期離職しにくくなるという人事データの相関とも整合する²⁵。
二つ目の柱は業務フローの自動化である。経費精算、稟議、勤怠修正、アカウント申請のような反復作業は、iPaaS(Integration Platform as a Service:SaaS間連携基盤)のワークフローでエラーに強い形に作り直す。人が判断するべき分岐は残しつつ、判定基準はルールにコード化して監査可能にする。これにより、承認リードタイムの中央値は日単位から時間単位へ縮小し、再申請率も下がる。申請者が「どこで止まっているか」を常に確認できるトラッキングは、心理的負担の軽減にも効く⁴。
三つ目の柱はITSM(IT Service Management:ITサービス運用)の近代化だ。チャットとポータルを入口に一本化し、問い合わせは自動でカテゴリ推定されて担当チームにスウォーミングで渡る。テンプレート回答ではなく、ナレッジが裏で継続的に改善される仕組みを運用の中心に据える。結果として、初動応答は半日規模から数時間以内へ、P90も2〜4時間台へと圧縮しやすくなる。従業員は「頼れば返ってくる」という期待を学習し、シャドーITは減り、ツールの分散は収束する⁴。
可視化で自律が回る:データ連携の要点
人事、勤怠、ITSM、コラボレーションのログを日次でデータ基盤に集約し、リードタイム、再オープン率、時間外作業比率、アカウント発行のTAT(Turnaround Time)を、部門横断で同じ定義のダッシュボードに載せる。重要なのは、ダッシュボードを経営報告のためではなく、現場の意思決定に使う点だ。現場は自部門のSLO逸脱を即日で見つけ、ワークフローの修正プルリクエストを出す。経営は月次でEX-SLOをレビューし、SLOが守れないならスコープや人員、ツールのどれを変えるかを議論する。この往復運動が、IT化を「導入プロジェクト」から「継続的なプロダクト運用」へと切り替える。
技術アーキテクチャと運用設計:APIファーストと失敗に強い自動化
アーキテクチャは、IDaaSとMDMで人と端末を束ね、ITSMとiPaaSでフローを実装し、コラボレーション基盤で通知とチャットハンドオフを行い、DWH(Data Warehouse:データ倉庫)とBI(Business Intelligence:可視化)で見せるという素直な構成だ。SaaS選定よりも、APIとイベントで結び、状態を一元に保つ設計のほうが成果を左右する。人事システムが入社イベントを出し、IDaaSがアカウント作成、MDMが端末登録、iPaaSが権限付与、ITSMがチケット発行、チャットがユーザーに完了を知らせる。どの段階でも失敗すればイベントは遅延キューに入り、再試行とアラートが発火する。こうした失敗前提の設計により、全体の自動化完了率は高水準(概ね95〜99%)を安定的に狙える。
運用の原則は三つに要約される。変更は小さく頻繁に、定義はGitで管理し、SLOは公開して誰でも見られるようにする。デプロイは曜日と時間帯を固定し、ワークフローの差分はレビューを通す。条件付きアクセス、最小権限、監査証跡は自動化の一部として実装し、監査対応は「ボタン一つ」で証跡を出せる状態を作る。セキュリティが後付けの障害物ではなく、運用の通行帯になったとき、現場は安心して改善の頻度を上げられる。
現場との境界設計:プロダクトマネジメントで巻き込む
IT部門が全てを背負うのではなく、業務側のプロダクトオーナーを立て、入社初日、申請、障害連絡というコアジャーニーを共に所有する。要件は「誰が、いつまでに、どのSLOで」を軸に書き、価値仮説、測定、改善のループをスプリントに埋め込む。こうして定義されたロードマップは、現場が納得して使い倒すプロダクトに近づく。月次の改善アイデアの多くが業務側から継続的に上がるようになると、ITのコンテキスト切り替えは減り、SLOの揺らぎも小さくなる。
成果の測定とファイナンス:数字の作り方を透明にする
成果は「感じ」ではなく因果に寄せて測る。実務では、拠点ごとや部門ごとの段階導入を行い、先行拠点を処置群、後行拠点を対照群として差の差分析で効果を推定するのが現実的だ。早期離職率や定着率は導入前後での相対変化(例:相対で1〜3割の改善が見られることもある)として把握し、季節要因や採用母集団の違いを統制するため、ロール、等級、勤務地でマッチングしたコホートで再計算して頑健性を確認する。従業員エンゲージメント(年次サーベイのスコア)やeNPS、重大インシデントのMTTR(平均復旧時間)、平均時間外労働などの周辺指標も、相関や方向性を確認するのに有効だ。良質なオンボーディングとデジタル体験の改善が離職抑制やコスト低減に資することは海外調査でも示唆されている³。
ファイナンスは算定式を公開して透明にする。例えば、総便益=(離職抑制人数)×(一人あたりの総離職コスト)+(リードタイム短縮によるスループット増の粗利寄与)+(ITサポートの工数削減の換算価値)と定義する。一人あたりの総離職コストは、補充採用費、教育期間の機会損失、チーム速度低下の影響などを足し合わせ、一般に数十万〜数百万円のレンジで仮置きすることが多い。初期投資はSaaSの年額前払い、MDM端末準備、iPaaSコネクタ開発、ITSM移行などを含めて千万円台規模になるケースが一般的で、運用費はこれに対して年数千万円規模で推移することが多い。こうした前提を用いた保守的な試算でも、施策の適合度が高い場合は年ベースで数千万円規模の粗利貢献や、1〜2年程度の回収期間に収まるシナリオが十分に描ける。いずれも「可能性の評価」であり、各社の前提で再計算できるよう、定義と式をダッシュボードに埋め込み、誰でも検算できる状態にすることが信頼の前提だ。
よくあるつまずきと回避の設計
効果が出ない典型は、ツールの乱立とフローが欠けた導入である。SaaSの数を増やすほど申請や権限の分岐は爆発し、現場の体験は悪化する。回避には、まずコアジャーニーを絞り、EX-SLOを先に決め、SLOを守るための最小限のSaaSとワークフローを作ることが効く。ワークフローはコードとしてレビューし、例外はデータで観測して潰す。経営はSLOと例外の月次レビューを続ける。この地味な運用が半年を超えた頃から、オンボーディングや申請フローの再設計が効き始め、9〜12カ月のスパンで指標が安定帯に入ることが多い²⁵。
より詳しいKPI設計や差の差分析の手順は、関連解説「DXのKPI設計と実装」が参考になる。IT資産とアカウント運用の勘所は「IT資産管理の現代化」に整理した。人事・IT・業務ログの横断分析は「ピープルアナリティクス実践」と「SaaSコスト最適化」も併せて確認してほしい。
まとめ:離職は「運用できる」課題になる
離職は、努力や根性ではなく運用で下げられる。本稿の「30%相対改善」は、特別なアルゴリズムの魔法ではなく、コアジャーニーを絞り、体験をSLOで定義し、APIとイベントで結んだ自動化を失敗に強く運用したときに「起こりうる改善幅の一例」だ。あなたの組織にも、最初の一歩はある。入社初日の立ち上げ時間、申請のリードタイム、IT初動応答という三つのメトリクスを、来月からダッシュボードで毎日見ることから始めてみてほしい。数字が動けば現場は動き、現場が動けば定着は高まる。次に何を計測し、どのSLOを守りますか。小さな改善を今日のスプリントに入れ、三カ月後に自分たちの数字で確かめよう。
参考文献
- Michael Page. IT業界は離職率が高いって本当?離職を起こす要因も解説(厚生労働省「雇用動向調査」への言及を含む). https://www.michaelpage.co.jp/advice/career-advice/changing-jobs/it%E6%A5%AD%E7%95%8C%E3%81%AF%E9%9B%A2%E8%81%B7%E7%8E%87%E3%81%8C%E9%AB%98%E3%81%84%E3%81%A3%E3%81%A6%E6%9C%AC%E5%BD%93%EF%BC%9F%E9%9B%A2%E8%81%B7%E3%82%92%E8%B5%B7%E3%81%93%E3%81%99%E8%A6%81%E5%9B%A0%E3%82%82%E8%A7%A3%E8%AA%AC%EF%BC%81
- DIAMOND Harvard Business Review(DHBR). 新入社員のオンボーディングが離職率の低下に寄与する. https://dhbr.diamond.jp/articles/-/10528
- Paychex. The Onboarding Crisis. https://www.paychex.com/articles/human-resources/the-onboarding-crisis
- Daijob HR Club. デジタル体験が離職に影響する実態(2022年米国アンケート). https://hrclub.daijob.com/column/354415/
- リクルートワークス研究所 Works-i. オンボーディングプログラムの活用と定着率向上の関連. https://www.works-i.com/research/labour/column/tm_tech/detail002.html